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修行時代をたどる

 

高校を卒業し、家業である印章店を継ぐと決めた段階で、父親の「そのまま家業に入るのではなく、一度、修業に出た方がいい」との助言に沿って上京しました。場所は東京都台東区の谷中にある、吉枝耕文堂。政治家や芸能人などの著名な顧客も数多く、渋谷や吉祥寺の大手百貨店に出店している印章店でした。修業先からの給料が6万円で、住み始めたアパートは、家賃2万円の風呂なし、共同トイレの部屋。当時はバブルの絶頂期なのに、流行歌の神田川さながらの生活を送ってましたね(笑)。

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修行時代を過した青春の街。台東区「谷中」

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日暮里駅から坂を下ると谷中商店街。

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手ぬぐい巻いてかよったフロ屋。

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家賃2万。フロなし共同トイレの「谷中荘」

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汗だくで彫刻の課題に取組んだこの部屋が原点。

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古き良き時代をそのまま残す「谷中」、
路地裏には、たくさんの猫が…癒されるなぁ。

私が修業に入る10年ぐらい前までは、印章彫刻の技術を学び取るために、全国から多くの人間がたくさん集っていたそうなのですが、進んでいく機械化の影響で、そのころ修業に入っているのが私一人という状態でした。しかも、当時3、4名いた職人さんもちょうど独立して辞めてしまったため、職人側の人材そのものも私だけ。修業に入ったばかりだというのに、技術を教えてくれる内側の人間が誰もいなくなってしまったんです。そんな状態ですから、彫刻ができる外部の下請けさんとの交渉、店の人とのやり取りなどを全部せざるを得なくなりました。ただ、こちらは丁稚奉公として腹を括り、修業に入っていますから、雑用全般を行なうことに、特に抵抗は感じませんでしたね。むしろ、普通ならば下っ端な弟子の立場で踏みこめない部分にまで立ち入らせてもらえたので、勉強、体験できることが実に多く、修業先としてはかなり恵まれた環境だとさえ思いました。いかんせん、彫刻の技術を学ぶために来たわけですから「あれ?」という気持ちは少しありましたが(笑)。

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吉枝耕文堂の看板。今は婦人宅に掲げられていました。

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東京の母。修行時代の3年半、毎日お昼を作っていただきました。

印章彫刻はそもそも「目で盗め」という職人の世界ですから、もし先輩方が残っていたとしても、手取り足取り教えてはもらえなかったでしょうね。むしろ下請けの業者さんなどに出入りし、現場をじっくり見させてもらうことが多かったですから、勉強する機会は多かったですよ。自分としても「早く知識を身につけたい、技術をものにしたい」という欲求を持っていたので「話が違うよ!」とくさることもなかったですし。

印章彫刻の技術そのものを学んだのは、私と同じように地方から修業に来ている者が多く集まる講習会が行なわれていたので、積極的に参加し、技を磨きました。この勉強会は、そうそうたる方々が講師として「後進を育成する」ことを目的としていますから、職人の仕事場とは違い、懇切丁寧に教えてくださる。ですから、私が身につけ、現在の礎になっている技術は、何人もの素晴らしい先人に、伝統工芸として永きにわたり続いてきた正統派の彫刻を教えていただいたものが根底にあるんです。オーソドックスにしてシンプル。本物の技術を学ばせてもらえたという意識は非常に強いですね。

 

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苦学を共にした全国から集まった講習会の仲間と岩本博幸先生。

講習会には、全国から同様の境遇にある若手同業者が集まる環境でしたから、とても楽しかったですね。もちろんライバル同士でもあるので、時には火花を散らして技術を競い合うこともありましたが、やはり仲間であり同志であるとの気持ちが強かったです。修業の日々を頑張れたのは、そういう仲間たちの存在があってこそ。バブルな時期でありながら、みんな正反対の貧乏生活を送っていましたが、講習会の時間が終わると「跡を継いだら、明るくきれいな店にして、気軽にお客さんが来てくれるお店をつくりたい」とか「昔ながらのハンコ屋のイメージを覆すような、新しいスタイルを俺たちでつくっていこうぜ」など、互いに夢を語り合ったものです。私も含め、みんな若かった(笑)。振り返ると、本当に楽しい青春時代を送れましたし、一人の職人としても非常に有意義な修業ができたと思いますね。

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現在、内藤富卿先生から篆刻を学ぶ

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奥深い篆刻の世界。時間を忘れる愉しさ。

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はんこの話になるとつい熱くなります。

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恩師 林誠先生

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